余丁町散人、2003.2.5
一番上の姉、服部(橋本)瑛子姉が亡くなってからちょうど5年になる。1998年2月5日、木曜日夜9時頃電話で連絡を受けた。その前の日曜日に名古屋に見舞いに行ったばかりだった。見舞いに行った時は、まだ意識もはっきりしており、2時間ばかり話が出来た。手を握ると「とても暖かい」と言って放さず、ずっと握り続けていた。
瑛子姉が生まれたのは、昭和8年11月16日、父幸次は25歳、母寿賀は18歳の時だった。その年の2月、日本は国際連盟を脱退。世界恐慌のさなか、日本は軍国主義で破滅に向かって突き進んでいる時ではあったが、父は独立したばかりであったし、大阪の下町での新婚家庭はそれなりに楽しかったようだ。空襲の激化と共に一家は西宮の別宅に疎開。そこで終戦を迎える。瑛子姉は11歳だった。翌年末っ子の尚幸が生まれ、瑛子姉はたまたま近所にある学校と言うことで、神戸女学院中等部に入学。以来昭和31年神戸女学院大学英文科を卒業するまで同じ学校にいた。神戸女学院は阪神間ではピカイチの才媛学校であるが、当初はそういう意識で入学したのではなく、あくまでも近くにあったからというのが理由だったと聞いた。下の二人の姉も全く同じコースを歩むこととなる。
この神戸女学院という学校は、アメリカのミッションスクールでもあり、学生も阪神間の比較的裕福な家庭の娘が多く、一般の公立学校とは相当雰囲気が異なった。当時から、土曜日は休日、日曜日には礼拝があり、服装も制服はなく私服だった。思春期の女子学生は無理をしてでも服装で自己主張をし、毎日同じ服で登校するとちょっと引け目を感じるような雰囲気だったらしい。大阪からやって来たばかりの両親にはそのへんが理解できず、瑛子姉は父親が職業柄入手した「上等の」羅紗で作ったセーラー服で通学した。セーラー服で通学した質実剛健な生徒は、終戦直後の当時でも学年で瑛子姉ともう一人いただけだったと瑛子姉は言っていた。その他、ミッションスクールの特別のルールがいろいろあり、富山県と和歌山県生まれの両親には理解できない点が多かったようで、間に立った瑛子姉はそうとう苦労したようだ。
瑛子姉は努力家でしかも抜群の秀才だった。兄姉の中では一番IQが高かった。数学パズルとかが好きで、読む本の量も半端じゃなかった。漱石全集を自分の小遣いで買いそろえたり、ディッケンズなどの英文学はたいてい翻訳で買いそろえていた。私が小さい時に読んだ本の多くは瑛子姉の買ったものであり、今でも私がフランス文学より英文学に親近感を覚えるのは、その影響なのであろう。ピアノはほとんどプロ級で、ラジオにも出演した。家のピアノがボロだと言うことが彼女の悩みでもあり、またこれで両親ともめた。卒業後、当時としては珍しく職業婦人となり(財)関西経済連盟で事務の仕事をした。非常に有能な人だったが、女性の社会的地位は当時はまだまだ低く、学生時代には家庭と学校の文化ギャップの問題もあり、とてもストレスが高かったように見えた。結婚したのは私が12歳の時だったが、そこで素晴らしい家族に恵まれることとなり、瑛子姉は一転して、目に見えて温和になった。彼女にとって服部奎吾氏との結婚は生涯で最良の選択であったと思う。彼女はとても幸せな生活を送ることになる。
私は彼女とは年も離れておったこともあり、直接的な関係よりもむしろ間接的なつながりが大きいと思う。彼女の蔵書で人格を形成したと言っていいし、最近まで瑛子姉が卒論を書く時に使っていたヘルメスのタイプライターを使用していた。今使っている英英辞書も瑛子姉のオックスフォード・コンサイスだ。彼女の1953年付の署名が入っている。
5年前、最後に瑛子姉を見舞った時、広島に瑛子姉を訪問した時の話などをしたが、彼女は「新婚時代、特に広島で生活していた時が一番幸せだった」といった。この「一番」という言葉に引っかかったが、或いは単に「とても」という意味だったのかも知れない。別れ際に「尚幸は、もっと痩せなければいけない」と過体重を注意された。
以来節制して少しだけだが体重を減らしている。
〔注〕瑛子姉:服部瑛子(旧姓橋本)1933.11.16 - 1998.2.5
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